煩悩108部屋

酒場「北のメイプル」は今日も賑わっている。
男たちのどや声の中、際どい格好をした女が酒を運んで、チップをはずませていた。
この酒場は「健全」で、揉め事が起こったためしがない。それというのも祓魔師だったオーナーの威光で、誰もその姿を見たことはないのだが、噂に聞くところによると隻眼らしい。
魔物と戦った際に亡くしたもので、相手の魔物は四百年も生きた人狼だったという。

「まあ、全部が全部嘘とは限らないんですよ。噂というのは肥大した真実なんです」
「ふうん」
酒のせいだろうか、弥勒は珍しく饒舌だった。しかもすこぶる機嫌がいい。
この男は酒には強かったはずなのだが、酔う酔わない関係なしに、酒は人の気分を解すものなのだろう。
一時間ほど前からここである男を待っている。
酒が苦手だから、と言って珊瑚はホットミルクなぞ舐めていた。
恐怖の一日から一か月ほどが経った。死線を一つ乗り越えてしまうと、達観してしまうから危ない。
一つ乗り越えたからと言って二つ目も可能だとは限らないのだ。それをつい一週間前、この男に出会った時に悟った。
自分一人では越えられなかった「線」を、この男がいたから越えられた。
その点で感謝もしたし、追っているものが同じということで道中を共にすることにした。
この一週間で分かったことは、この弥勒という魔術師がとんでもなく理解不能な領域にいることだ。少なくとも珊瑚の常識に照らし合わせれば。
「……でもさ、本当に不思議なんだ。法師さまがあの場に居合わせたこと」
「私のことは弥勒で良いと言っているのに。法師だったのは昔であって、今はそんな高尚な立場にいるわけではありませんよ」
「どっちにしろ高尚だよ、あたしたち普通の人間からしてみれば。方術関係は神様とおんなじだ。魔術だって……忌み嫌われてはいるけど、一緒」
珊瑚は肩をすくめてミルクをすくう。もうぬるかった。
「でもお前だって、普通じゃない。そうでしょう?」
弥勒は琥珀色の液体を呷った。同じ酒を飲むのでも、彼がするとそこらの下品な男とは違う。
「そう言われるのが一番嫌かも。あたしは普通の女の子だよ、16歳のさ」
「ええ、法律上死んだことになって、魔物の能力を移植された16歳のね」
「………」
静かに睨みつける彼女を見て、やっと彼は自分が言い過ぎたことに気付いたらしい。サービスとでも言うように、二杯目のホットミルクを注文して、大きな手で頭を撫でてきた。
「お前のところにジョウントしたことが、私の運命なんですよ」
「どうして?」
「法師から魔術師になって、私にも失ったものがあります。悲しませた人がいますから」
罪滅ぼしという意味だろうか。救うとかそういう意味では見られたくなかった。
「そもそもジョウントって?」
「ああ、それは死に際した時現れる特異能力で――もとはジョウントという人間が溺れて死にかけた時に別の場所に瞬間移動したことから名前が付けられました。テレポートのことですよね、古風に言うなら」
「別の場所っていうのは、選べるの?」
珊瑚の黒い眼が弥勒を見つめていた。
救うなんて憐憫の情で見られたくはなかったけれど、彼が運命を「選んだ」のか「知った」のか、どちらなのかを知りたかった。
そもそも彼があの場所を知っていたのだとしたら、彼は信用出来ないと言っているようなものだ。
「心配は無用ですよ」
「……魔術師は嫌い」
今心を覗いたね、と言って珊瑚はそっぽを向いた。
弥勒はただ苦笑しただけだ。女性には優しいと言っただけある。と言うより、法師だったころの名残か、人当たりがいいのだ、基本的に。
(腹に一物あるのは知ってるけどさ……)
「ジョウントで私があそこに現れたのは偶然です。ジョウントの研究は行われてますが進んでません。どこに現れるか全く分からないのが現実ですから。ちょっと前までは現れるかどうかすら、不確定要素だったんですよ」
悪戯っぽく笑う様は板についていた。
「お手軽便利ですよね、黒魔術」
どこが、と思わず心の中で毒づいた。
まずお手軽ではないし、便利かもしれないが心地よいものではない。
先程のように心を覗かれたり、使用者当人には都合がよくともこちらには都合が良くない。
魔物の能力を移植されたことで、魔術めいたことは使えるようになったが、お手軽だとも便利だとも思ったことはない。
さっさと体から出て行って欲しい要素だ。
「そもそもジョウント実験自体が危険を伴いますから……私も首を吊ってやっと出来たことですし。もし出来なかったらあのまま死んでいた」
珊瑚は思わずミルクを噴き出した。白い液体があたりに飛び散る。
「く、首を……!?」
「驚くのは一向に構いませんし、こちらも楽しいのですけど……お前、それはそそる」
くつくつと笑った弥勒の声が一気にひそめられた。陽気な気さくさは消えて、男の色気がぷんと香る。
「お楽しみ中悪ぃけど、今来たぜ」
顔を赤くしてうつむいた珊瑚の頭上から、やんちゃそうな少年の声が降ってきた。
「ああ、犬夜叉」
名前を聞いて待ち合わせの男だと珊瑚も知る。
「……獣人?」
魔物じゃないか、珊瑚は眉を潜めた。しかも耳の様子からして人狼かもしれない。
「心配するな、人犬、だから」
「人面犬?」
「都市伝説レベルに還元すんな。お前、顔に牛乳飛び散ってんぞ」
席に着いた犬夜叉が珊瑚の顔を指さして言う。
慌ててテーブルクロスでぬぐった。
「ま、魔物の知り合いがいるなんて知らなかった」
「で、どういう用で俺を呼んだんだ? それにこいつ……少し魔物のニオイがするけど、魔物か?」
待ち合わせの男は無遠慮で粗い。
予想してたけど、とため息をついて、珊瑚は改めて魔術師と魔物の顔を交互に見詰めた。


to be continued...?



確かに恋だった」さまのお題「黒魔術のひと5題」より「お手軽便利ですよね、黒魔術」。
ネタ系お題に分類されていたのに、ギャグにはなりませんでした。でもこれはネタですね。
一息もつかずにここまで妄想できたなんて久方ぶりです(笑)
ライトノベルファンタジーにありそうな冒険中の一コマ、がコンセプト。
ジョウントというのは、「虎よ!虎よ!」に出てくるテレポーテーションの名称です。
黒魔術お題、この設定で一貫してみたいです。

2010.02.07 漆間 周