紫風、流

またか、と何度目になるか分からないため息をついて珊瑚は明るい日差しの中を雲母に乗って飛ぶ。
あの法師が行方不明になるのはよくあること。
そしてそれを自分が探すのは、最早仲間にとって当たり前のこととなっているらしい。

小雨が霧のように降り続けている。
雲母、付き合わせてごめんね、と頭を撫でてやって、残る「心あたりのある場所」へ向かった。
どうせ彼のことだから女関係だと思っていたが珍しい。
女関係でないとしたら、彼が行く場所として思い浮かぶのは一つしかない。
彼が育った寺である。

目下に無常をあらわすかのように現れた大穴を見つめて、珊瑚はただ、なびく髪を押さえた。

降り立った寺の境内。
失礼だろうとは思いつつ、彼の気配がないのでがらりと障子を開ける。
そこにいたのは、やはり飲んだくれの彼の育ての親。
今日も今日とて、大きな酒瓶を抱え、大きな腹を心地よさそうに上下させて眠っている。

夢心さま、夢心さま、と何度も呼びかけ体を揺することしばし。
鼻ちょうちんがぱちりと弾けた瞬間に、和尚は目を覚ました。
仏に仕える身でこの人も呆れたものだと思いつつ、弥勒の所在を尋ねる。
むっくりと起きあがった和尚はお主は、と呟いておおそうじゃそうじゃ、と自分が一緒に旅する仲間であることを思い出したらしく、邪気無く笑った。
「弥勒を探しに来たんじゃろ? あやつなら寺の奥の滝で身を清めとるわい」
そう言って起き抜けにも関わらずぐびりと酒瓶を片付ける。
「そっか。何も言わずに飛びだしちゃったから……探しに来たんだけど」
ひょっとしてまた風穴が? と目くばせすると、和尚は違う違うと答えた。
そして酒瓶をぐいと差し出す。
は? という表情でそれを見つめれば。

「とってきてはくれぬか」

あんまりな発言に思わず手が出た。
湯気でも出そうに腫れたたんこぶに、すみません、と謝る。

「どこにあるんですか」
「庫裏にしもうてあるわい」
「分かりました」

立ちあがった彼女の背中に、あの調子なら弥勒も良かろうてと呟く声がぶつかって、珊瑚は少し頬を染めた。
ばたんと大きな音をわざと立てて障子を閉める。

「はい、夢心さま」
つ、と差し出すと彼はふぉっふぉと笑って、そういえば藤の花が調度見ごろじゃから見てこい、と言う。
「いえ、でも」
「弥勒をただ待っておるのも暇じゃろ? 寺の奥にあるわい」

ぱちりと合った視線に、策めいたものを感じて、ああやはりこの人が彼の育て親なのだな、と思う。
では、と答えて立ち上がり、広い渡り廊下を進む。

――ああ、あそこか。

奥に崖めいた場所があり、山肌の見えるそこには紫の房を真珠のようにぶらさげた藤が咲き乱れている。
そのさらに奥に滝。
恐らくそこに彼がいるのだろうと思って、邪魔してはいけないと気配を殺して、岩を登った。

しなやかに伸びて風と水音に揺れる藤の枝。
その一房一房は、こんなにも淡い色をしているのに、これだけ集まっているからだろう、どんな紫よりも濃い紫に見える。
それは見える色ではない。
感じる色で、まるで霧のように立ち込め体の中まで満たして行くようだ。

房に手をのばすと、水滴がしたたり落ちる。
人差し指の先に留まった一滴は危うくその先で震える。
あたりを映しこむ雫を覗けば、その先にあの人がいた。

ほう、と覗きこんで見ていると、側の雲母もみっ、と鳴いて、どうしたの、と覗きこんでくる。
しーっ、と雲母に人差し指をあてて、珊瑚は再び雫越しに法師を見た。

滝に打たれて目をつむり、印を組む手はゆるがない。
白着も全て水に侵されて、肌が透けてみえる程。
髪もまた然り。

神聖さと男の色気の危うげな均衡に、珊瑚はごくりと息を飲む。

その瞬間、なぜだか彼がこちらを見た気がして、珊瑚は慌てて雫を指先から払いのけた。

ほんのりと熱くなった頬が自覚できて、もう、と一人むくれる。
「邪魔しちゃ、悪いよね」
浮いた心で呟いたのは無理矢理な理屈。
雲母は主のその様が不思議なようで、首を傾げる。
おいで、と膝の上に雲母をのせて、珊瑚は藤を一房手折った。

「ほら」

さらさらとゆれる、玉の首飾りのようなその花。
揺れる花先に雲母が戯れる。
思わず漏れた微笑。

「雲母も楽しそうですな」
「うん……って、え」

近づいてきた男に気付きもしなかった。
はたりと取り落とした花房を追って、雲母は岩場を駆け降ていく。

「ちょっと、いつの間に」
「全く、修行の邪魔をしてくれますな」
弥勒は隣に無遠慮に座ってくる。
「わ、悪かったね」
ふん、とそむけた顔。

不意を衝かれたのも腹立たしかったし、今の彼の姿をあまり見たくなかった。
自然と染まる頬は止められないから。

「どうして、勝手に出て行ったのさ」
「いえ、宿のものにはしばらく出ると伝えましたが?」
「そうじゃなくて!」
がっと、掴みかかって珊瑚はしばし凝固する。
弥勒の前髪から水滴がしたたる。
流水のせいで着崩れた着物からはその男らしい鎖骨が露に見える。
力も抜けるようでその手を思わず離す。

「どうした?」
「べ、別に……」

「別にでは分からんだろう」

いつの間にか伸ばされた手は輪郭を辿って、くいと顎を持ちあげる。

「私の方を見ろ」

「む……」

腹立たしさと恥ずかしさと、ないまぜになって、頬を赤くしたままむっと膨らませる顔。
それがどうにも可笑しかったのか、彼は無邪気に笑う。

「おかしな顔をするな」
「ばか。そういうことじゃなくて! だから……その、あたしにくらいどこ行くか教えてくれたっていいじゃないか」
俯いて唇を噛み締めた珊瑚に、弥勒はぽふんとその丸い頭に大きな掌をのせた。

「すまんな。お前が探しに来てくれると思って……甘えていた」
「そ、そう……」

――全く、この男は。

そう言われてしまうと――そこが自分の悪いところなのだろうが――丸めこまれてしまってそれ以上追及出来ない。

「でも、何で夢心さまの寺に?」
平常心で彼の目をちらりと伺う。
「それは……少し、この前の奈落との闘いで己の無力さを思いまして」
「どういうこと?」
「奈落相手だと風穴が使えない。なら法力で戦うしかない。それでも、私なぞの力では敵わぬからな」
真剣にどこかを見つめる彼を見て、この法師にもそんな風に自身の非力を思う時があるのだと初めて知った。

「何言ってんのさ」
――こう言う時は、あたしの仕事。
「戦うのは法師さまだけじゃない。あたしも、かごめちゃんも、犬夜叉も、七宝も雲母も、みんなで戦うんだ。得手不得手補ってみんなで戦うんだ。退治屋の仕事はそうだったよ、みんなで協力して戦った。一人じゃ勝てない妖怪だって、みんなとだから倒せた。だから――奈落相手だって同じさ」

そうか、と弥勒は感慨深げに呟いた。

大丈夫、と言って肩を寄せる。
彼の濡れた着物のせいで、自分の肩まで濡れて行く。

脳裏に浮かぶのは戦う仲間たちの姿。
犬夜叉の妖刀、かごめの霊力、弥勒の風穴、七宝と雲母の協力。
何よりも、自分とかごめをかばうように前に立つ男二人の姿は――どんな化け物も敵わないほどに強い。きっと。

みっ、と鳴き声が膝の上で聞こえて、珊瑚は目を開けた。
雲母が先程の藤の房を咥えて戻ってきた。

「おや……雲母も一緒でしたか」
「雲母なしでどうやってここまで来るのさ」
「そりゃ、そうですな。まあ……雲母、それをちょっとばかり頂けますかな?」

首を傾げた雲母は広げられた弥勒の掌の上に花房を落とす。

「ほれ、ちょっと」
そしてその手が向かうのは珊瑚の髪。
え、ちょっと、と小さく声を上げたが、じっとしていて下さいね、との彼の声に大人しくする。

「ほら、出来ました」
嬉しそうに笑う彼。
首を傾げて右の方を手で触れば、そこに花が。
「どこぞの姫君のようだな」
「な……またそういうこと」
「嘘で言うと思うか?」
「法師さまは嘘で言うもん」
「心外な……お前には嘘は言わん」
「それが嘘だってば」

無限に続きかねない屁理屈に珊瑚はやめたやめた、と立ち上がる。
しゃら、と花房は揺れる。

「帰るよ?」

「分かりました」

立ちあがって二人と一匹、寺の中へと戻る。

***

「それでは、失礼いたします」

雲母に跨って待っていた珊瑚の許に弥勒が駆けてくる。

「もう雨は止んだようですな」
「ああ……そういえば、そうだね」

そして、いつものように彼を背中に飛びあがる空中。
風を切る。
髪の花が揺れる。

外せなかったのは――他ならぬ彼がさしてくれたものだったからと……その紫があんまりにも。

こっそり微笑してそこに手をあてる。
後の弥勒がその手に数珠の巻かれた手を添えた。

「気に入りました?」
「……勿体ないから!」
「素直でない……おや、珊瑚」
「何?」
振り返って見るのは。
「虹だ」

「ああ、ほんとだね……」

雲母が二人の気持ちを察したかのように空中で止まる。

暮れかかった日の光、周囲に浮かぶ虹。

逆光で彼の顔は見えなかった。
けれど、きっと真摯な顔だったのだろう。
そっと寄せられた唇の感触でそれが分かる。

「珊瑚」
「何さ」
「これからも、共に」
思わず噴き出して、珊瑚は言う。
「当たり前だろ?」
「そうか」

そうして多分、法師の顔も笑顔に変わって。

そっと風が藤をゆらして、どこかへ攫って行く。
思わず伸ばした手は届かない。

おや、勿体ないと言った彼に珊瑚は答えた。

いいんだ、法師さまが一緒だから、と。


fin.



滝修行法師に挑戦、が思っていたよりえろてぃっくになりませんでした。
藤の花も二番目に好きな花ということで使用。
季節外れですが、藤の紫と法師を重ねていただけるとありがたいです。
相変わらずタイトルセンスなくて凹みます。
それでは、ここまで読んで下さってありがとうございました。

2009.08.04 漆間 周