愛だの恋だの、知らずに生きてきた。
男の扱いなぞ知らない。
正直女がそういう気持ちを抱くというのも理解できなかったし、男もまたその気持ちを向けるということの意味すら分からなかった。
けれど、里の幼馴染たちは恋めいたものをしていた。
恋とはどんな気持ちか尋ねたら、答えられたのは胸がどきどきするだとか、いないのにその人ばかり考えるとか。
そして、それは突然起こるのだという。
その気持ちを、好きと呼ぶのだという。
――なら、あたしは。
ふぅ、と息をついて珊瑚は足を揺らした。
心地よい風が体をかすめて駆け抜けていく。
彼女がいるのは、いつも犬夜叉が座り込むような樹木の枝の上。
幼い時から木に登るのは大好きだった。
そこから見える景色が好きだった。
例えば、遠くに見える里の工房の煙や砦。
抜ける森。
見上げれば光と影がちろりちろりと移ろい、眼には痛すぎる太陽を和らげるように包み込んでくれる。
同じようにこうして一人もの想いにふけることなど、このごろはなかった。
今日は珍しくあの法師が探しに来ない。
こんな類の感情を、探るのだ。
彼がいないに越したことはない――いや、相談するのが吉だろうか?
一瞬考えて、珊瑚はううん、と首を横に振った。
どうして彼に相談せねばならない。
膝の上の雲母を撫でた。
安らかな時間はいつも砂のようにこぼれ落ちる。
幸せな時間というのは、えてして短く思うものだ。
だから――せめて精一杯味わいたい。
木漏れ日を作るその一枚の葉をぷちりと手に取って珊瑚は瞼を閉じた。
――珊瑚ちゃん、そういうのはね、恋っていうのよ、恋!
――や、やだ、あたしあんな助平で金好きで不良なやつなんか……!
――……好、き?
――ああ。
――あたしは……よく分かんないよ、法師さま。
――いずれ自分で分かる。
瞼の紅が濃くなったり薄くなったりするのは、全て太陽のせい。
――法師さま……一緒にいると落ち着く。
――そうか。……私もだ。
――お前に心配されるのが、一番嬉しい。
ぱちりと開けた瞳が見るのはいずこか。
頭の中で再生される数々の会話に落ち着かない。
特に、あの人の声はざわりと揺さぶってくる。
そこで囁かれているかのように。
目を眇めて自分の右手を見ると、彼の右手が心配になる。
自分のそれとは違って、男らしい、角張っていて、でも優しい。
なぜ、優しい。
触れあった瞬間の温かさを思う。
――そうだ、優しいさ。
しかし、そう思う気持ちが何やらもやもやする。
それは仕方ないのだろうか。
浮ついた、そわそわした、そんな気持ちでいて、戦うために生きているのに、余計な感情はいらない。
必要なのは、冷静で、落ち着いたそんな感情。
熱くなりすぎず、しかし冷め過ぎず、いつでも地に足をつけていなければならない。
そう思うと、思いだされるのはやはりあの法師のこと。
彼が一応は僧侶であるせいか、平生から冷静沈着、しかし仲間のために命さえ賭けたりもする。
「はぁ……どうなってんだろ……」
うっすらと額に浮かんだ汗をぬぐって、珊瑚は眠た気に瞼をこすった。
そのせいか膝の上の雲母も起きて、肩の上に飛び乗った。
ぺろりと頬を舐められて、珊瑚はくすくすと笑う。
「ねえ、雲母はどう思う?」
みゅい、と首を傾げる猫又に苦笑する。
「分かんないよね」
ふあ、と欠伸して、赤子をあやすように雲母を両手で頭上に持ち上げた。
愛らしい顔が何、と尋ねるかのように自分を見降ろし、しなやかな体が若干の重さを伴って腕に伝わる。
にこりと笑って揺らしてやれば雲母は嬉しそうに尻尾を振って鳴いた。
が。
「……あ」
どうしてこんな間抜けをやらかしたのか、と珊瑚は思った。
傾く体。
重心はもう、木の上にはない。
――まあ、受け身がとれれば大丈夫だし……。
楽観した彼女に数秒後、意外な感触が伝わった。
「……え?」
目の前にあったのは先ほどから考えていた相手の顔。
広げられた腕はしっかりと自分の体を受け止めている。
雲母はちゃっかり彼の頭の上に着地していた。
「どうして?」
目を見開いて尋ねた。
自分一人なものだと思っていたからだ。
「どうして、ってお前。私はずっとここで休んでいたのですが?」
そう言って弥勒が指差すのは珊瑚が上っていた木の下。
「え」
――まさか、気配に気付かなかったなんて。
「不覚、ですね。お前らしくない」
にっ、と笑って彼は珊瑚の額を指先でそっと弾く。
別に、と答えれば、お前でもそんな時があるのですね、と彼は言った。
「ねえ」
彼女を腕に抱えたまま、地面に胡坐した弥勒に珊瑚は尋ねる。
「どきどきするのはなんで?」
「はぁ?」
真摯な顔で尋ねたのに、彼は全くもってとぼけた顔で返してくる。
「何がどきどきするんです?」
「だから……! あたしが! いっつも、法師さまのことばっかり考えちゃって……それで、なんだか浮ついた気持ちになる。このままじゃ、戦闘に支障を来す」
どうしてくれるんだ、と言わんばかりに最後を強く言ってやった。
だが、弥勒は一瞬きょとんとして大爆笑する。
「真面目に聞いてるの!」
「は、ははは……それは……それはそれは……告白ですか?」
「何の!?」
「愛の」
低く言った彼の一言に珊瑚はぴしりと固まる。
「そんなんじゃない!」
「そうですか……折角、お前が返事をしてくれたのかと思ったのに」
「何に対して?」
「私が以前言った好き、に対して」
さり気無く彼は珊瑚の頭を撫でているが、彼女は気にしていない。
むしろ心地よく感じる。
動揺した心に彼の声と掌は、良く効く。どんな薬より。
「……分からない」
心地よさと浮つく気持ちの挟間で、言えたのはただその一言。
その返答にくつくつと笑う法師は、どこまでも詐欺師に見えた。
「いつか分かるだろう」
「……そうかな?」
「ええ」
笑って彼はそっと額に口づける。
不思議な気持ちでその場所に手を当てた。
なんだか心もち顔が熱い。
――なぜだろう。
「ま、帰りますか。もうそろそろ日が暮れる」
「う、うん」
そうしていつものように並んで歩く。
変わらない情景。
なのに、変わっている心。
――分からない。
全て胸の奥底にしまった。
今は。
fin.
連載ではなく連作形式にしようと思っております。
テーマは「不器用な」でまずはこの珊瑚サイド、次に弥勒サイド、締めに二人と持って行くつもりです。
それって連載じゃない? と思ったアナタ(笑)
時系列が違ったら連載にならないのです! あえて時系列を変えて書きたかった。
この≪分からない≫は初期の初期、という設定です。
自由度が増したからにはどうしましょう、書くのが楽しみです。
それでは、ここまで読んで下さってありがとうございました。
2009.08.14 漆間 周