花影揺れて

ふと昨晩のことを思い出して、弥勒は己の右手を見た。
女郎を抱いた手だ。指と指を絡めて、唇を撫でたり果ては秘所に押し入った指先だ。
変な気分になったわけではない。
昨日そんなことをしていた右手が、当たり前に真昼の光にさらされているのが不思議だったからだ。
しかも珊瑚の隣。
「どうかした? 法師さま」
声と共に心配そうに注がれた珊瑚の目線は、呪われた右手と彼の顔に集中している。
「いえ、何でも」
彼女の心配の内容は明らかだが、弥勒が考えていたこととはかけ離れている。
妙に罪深い感じがした。
平生を装って歩いているけれど、一度意識してしまうと足の動かし方さえいつもと違うように思えて来るから恐ろしい。
「どうしたの?」
落ち葉を踏むがさつな音がする。これも、いつもと違うと思う。
「何もない」
「……そう」
言外に、珊瑚は「仲間だから話してくれたっていいのに」と言っている。
訳もなく苛立った。
本当に理由がないのではない。
好いた女がいるのに伝えられないとか、それなのに別な女を抱いたとか、相手が自覚なしだとか。
「もし」彼女が自分を愛していたらこの事実につきあたった時嫉妬するだろうと思った。
仮のことを考えると、それをそっくりそのままひっくり返して――ご都合主義なことに――「もし」彼女が自分と同じことをしたら自分はどう思うか、なんて下らないことに至ったのだ。
「お前、男に抱かれたことはあるか?」
唐突な問いに、珊瑚の顔が引き攣った。
当然だ、内容はあんまりにあんまりだ。
「あのさあ……」
珊瑚の顔は真っ赤だった。
初な女だと弥勒は思う。
だが初なら初であるほど、信じられないとも思った。
「その反応ならないか、あっても数回か?」
弥勒は意味もなく冷たく笑っていた。

「信じられない」

赤を通りこして青くなった顔を、珊瑚は震わせていた。
「自分のこと、棚に置いて」
喉奥から吠えるように彼女は言った。
唇をきつく結んで、珊瑚は弥勒の隣を離れて行く。
怒っているはずなのに足音はいたって普通だった。

「何だ、知っていたのか」
確かに、与えられた部屋は一室だったのだから、夜法師が居なかったことを珊瑚が知っていてもおかしくない。
「……かごめさまの手当か?」
楓の庵に向かったらしい。
何となしに二人でうろうろしていたが――約束もなかった、ただそういう流れになっただけだ――別段自分は必要ないだろう。
そう判断して、弥勒は一人呆ける時間を作った。
今はそうしていたいと純粋に思ったからだ。

奈落の襲撃があったのは数日前で、かごめがひどい怪我を負った。
それを庇いに行った犬夜叉も、同じように怪我をしたが、妖怪と人間では回復力が違う。
肉体的な傷もあるが、精神的な傷もある。
奈落は後者をついてくる。特に弥勒と珊瑚には効果的だ。

***

「法師さま」
弥勒が目を開くと、珊瑚がしおらしく立っていた。
赤茶の落ち葉に彼女の長い黒髪はよく栄える。
「何かありましたか?」
夕餉の呼び出しでもないのに、彼女がここに来る意味がない。まだ昼過ぎだ。
「いや、何もないよ。ただ一人でいるのは危ないんじゃないかと思って」
「そうですね……戻ります」
先程のことなどなかったように弥勒は立ち上がった。
「あ、あのさ」
「?」
肩がぶつかった。自身の横を通り過ぎる法師を、珊瑚は思わず止める。
その広い背に手を伸ばして。
「あ……」
振り返った弥勒の顔は、何も触れないでくれと言っていた。
瞬時に湧き上がった怒りに、きゅと結ばれた掌だが、すぐにほぐれる。
す、と上げた腕に叩かれると思ったが、それは意外にも頬を優しく包み込んだ。
「ごめん、気付けなくて」
珊瑚の瞳は弥勒のを直視しているが、決して同情はしていない。
ゆっくりと掌を下ろすと、珊瑚は走り去ろうとする。

「待ちなさい」
思わず弥勒は腕を掴んで静止していた。
戦う姿からは信じられないほど、細い。当たり前だが、少女の腕だった。
「何さ」
「あ……ええと」
止めたは良かったが、言うべき言葉が見つからない。
苦笑するしかなかった。
「別に、何も……すみません」
「そっか」
弥勒の予想に反して、珊瑚は柔らかく微笑みかけただけだった。
頬に触れただけでとてつもないことをしてしまったように震えていたくせに。

初な少女だと思っていれば、一丁前の女のような表情もする。
そういうところも放っておけないのだと、改めて自覚した。

「怒って……る?」
腕が掴まれたまま動かない。
「あ、いいえ。大丈夫です」
「な、ならいいけどさ、腕、離してくれない?」
「……やっぱり、大丈夫じゃないです」
は、と珊瑚が呆れた。
「大丈夫じゃ、ないんです」
熱に浮かれたように弥勒は呟いて、珊瑚の腕を引き寄せた。
肩を抱いて、腰に腕を回して、柔らかくて形のいい頭に顔を寄せる。
「う……」
「珊瑚、お前……本当に、男に抱かれたことがないのか?」
ない、心の底でそう確信しているのに、訊いてしまう。
「あるわけないだろ」
少し怒った風な声音。でも、決して突き放さない。
「それが何か関係あるの。法師さまに」
自分は大人だと言い張る子供のようだった。
背伸びをしようとして、珊瑚は失敗した。
慣れない話題と雰囲気に声が震えてしまったのだ。

「大ありです」
「なんで」
話が続いてしまった以上、戻れない。
男の腕の中に甘んじてしまっている以上、今更暴れられない。
会話は珊瑚の意図せぬところに走り出してしまった。
「気付くはずだが?」
こういうことも「分かる」んだろう、とわざとらしく弥勒は言った。
なぜ、と聞いたのは確認ではなく疑問だと知っているくせに。

腕の中で、珊瑚は震えていた。いつの間にか。
――おや……。
少しだけかがんで彼女の顔を確認する。
大きな瞳に溜まる涙が、今にも伝い落ちようとして……。
真っ赤になった顔が、一つ涙の雫を落として歪んだ。
「〜……!」
声にならない悲鳴めいたものを発して、珊瑚はとうとう走って行く。

「あー……」
やってしまった。
つくづく今日は自分が悪い。
昨晩のことから、わけもなく珊瑚の男関係まで勝手に想像して嫉妬して、言葉で傷付けた。
「で、最期は泣かせた、と」
わしゃ、と弥勒は頭をかいた。

「これだから、女は分からん……」

少女の顔をして、女の言うことを言う。
女の顔して、少女めいた笑い方をする。

「花でも渡すか」

贈り物でどうにかしようなぞ甘いと思いつつも、渡した時の彼女の顔が見たくなって弥勒は足元を見渡した。
ちょうど分け入ったところに青い野菊を見つけて摘み取る。

――俺、踊らされてるんだろうか。
あんなに経験の少ない年下の彼女に。

「お前、どう思う?」
野菊を太陽に透かして尋ねてみる。
青い花弁は、清楚にたたずむだけだった。


fin.



12月末に休止状態になってから初めての更新です。つまり、今年に入ってから初めて。
あけましておめでとうございます。(と、一応言っておく)
他の女を抱いた弥勒×気づいちゃった初な珊瑚ちゃん(出会って間もない)です。
スカーレット・クロスに再びはまってから、へたれてしまった男というものが好きになってしまいました。
ヴァンパイアパロディが書きたくなっているのも、↑のせいです。
それでは、ここまで読んで下さってありがとうございました。

2010.02.06 漆間 周