今宵の宿の縁側は、見晴らしが良い。
目の前には何枚もの水田が広がって、正面に大きな月がのぼっている。
水を張った田には、その月がうつって…。
蛙の鳴き声と、初夏の足音さえ聞こえるような爽やかな風。
ついつい心まで軽やかになって、弥勒は酒を片手に縁側に座り込んでいた。
ちゃっかり、横には珊瑚を座らせて。
普段からは考えられないことに、弥勒は少々酔っ払ってるらしい。
大騒ぎするとか、迷惑な酔い方ではないが、やたらと機嫌が良く、珊瑚に甘えて来る。
初めは珊瑚の手を握る程度だったが、次第に距離が狭まって来ているのだ。
力で振りほどいても良いし、彼をここに残して部屋に引き上げても良かったのだが、
なぜだか、そうは出来なかった。
優しい夜を、まだ味わっていたかった。それも、彼の隣で。
だが、優しくしておけばつけあがると言うべきか。
「ちょっと」
彼にもたれかかられ、肩に腕を回され、挙げ句の果てには、首筋に顔を埋められてしまった。
それでも意図的な”せくはら”には至らないせいで、珊瑚はすっかり毒気を抜かれてしまったのだ。
「うーん」
「うーん、じゃないよ」
体の硬さが男らしくて、なのに顔があどけない。いつもとは違って。
自分より高い、弥勒の背。
いつも横に立って歩いて、二人きりの時だって、見上げるはずの彼の顔。
それを、今は見下ろしているのだ。
見上げる時よりも、顎の線が細い気がした。
睫毛が長いと思った。
男らしさではない。女性のような美しささえ感じた。
「法師さまってば」
首筋にかかる彼の息、平生よりやや高い体温。
くつろいだ様子の弥勒とは真逆に、珊瑚の心臓ははやくなるばかりだ。
「珊瑚……」
熱っぽく呼ばれる、名前。
「お前、温かいな」
酒で熱くなった体に、外の風は少し寒いらしかった。
抱きしめるというより、抱きつく形で、彼の腕が回される。
「くっついちゃだめだよ」
「なぜ? だめですかね? 良いじゃあないですか」
「良くないよ」
――良くない、良くない。
彼のある意味、”愛らしい”姿に絆されてしまっただけで、もしこれ以上の密着を許してしまえば、後で何を言われるか分かったものではない。
酔っ払っているから、忘れてしまうかもしれないが。
しかし彼は彼だ。
隙らしきものを見せても、後になれば必ず珊瑚よりも上手。
これまでの経験から、珊瑚は二つの可能性を考えていた。
一つは、彼が酔ったふりをしているだけというもの。
もう一つは、当然弥勒は今日のことを覚えているので、数日後には今日のことでからかい倒されるというもの。
「どっちも良くないから!」
くっついた彼の体を引きはがそうと、珊瑚は弥勒の肩に手をかけた。
ところが。
「ぐっ……」
思った以上に彼は脱力していて、重心はこちら寄り。
「何をするんですか」
「あんたをどかそうとしてんの!!」
「おっと」
ぐら。
体が傾いて、倒れ込む。
当然のごとくついて来る弥勒。
「………」
やってしまった、そう珊瑚は思ったが、もう遅かった。
倒れて、横になった自分の体の上に、弥勒が覆いかぶさっている。
彼の故意でないにしろ、これはもう、せくはらでしかない。
両腕を珊瑚の肩あたりのところについて、彼は少し身を起こす。
驚いた様子で見開かれた弥勒の瞳。
珊瑚は思わず眼を背けた。
「もしかして、お前」
一瞬の沈黙の後。
「誘ってないからね?」
「嘘でしょう」
――嘘でしょう、じゃない!
睨みつけたが、酔っぱらいには通じなかった。
「顔も赤いですし……そうですねえ」
弥勒の手が胸元に置かれる。
「音が、聞こえそうなくらいですよ?」
にっ、と笑った顔は先程とは全く違う。
ちょっとでも可愛いなんて思ってしまった自分が憎い。
珊瑚はむっと頬をふくらませた。
「法師さま、酔っ払ったふりしてるんだろ!?」
「はい? 酔ってなんかいませんよ?」
「何言ってんのさ」
本当に酔っ払っているのか、
それとも酔っ払っているふりをしているのか。
酔っ払っているから、わけのわからない事を言うのか、
それとも”ふり”だから、わざとわけのわからない事を言うのか。
しかし、彼の香りに包まれて。
吹いてくる風が、あまりにも心地良い。
優しい月明かりに、初夏を思わせる草の香り。
先程見てしまった、彼の安心し切った表情。
愛おしさはこみ上げて、自分にそんな思いをさせる、彼が憎い。
「もうっ……」
なんだか腹が立って、彼の首に腕を回した。
「馬鹿……」
彼の唇に、自分の唇を押し付ける。
酒の匂いがして、そして熱かった。
ばくばくと音を立てる心臓。頭の中でその音が鳴っている。
きっと彼に聞こえてしまっているだろう。
唇を離すと、弥勒が満足そうに笑っていた。
「やっぱり、誘ってるんじゃないですか」
そのまま、彼の頭が首筋に降りて来て。
柔らかくて、熱い、唇が押しあてられる。
「すみませんね」
「何が?」
「いえ……私は酔っている気がするので、折角珊瑚が誘ってくれていても」
――最後までは、しませんから。
そう言って、弥勒はもう一度口づけをした。
fin.
約二年以上のお久しぶりです。漆間です。
当初の予定を越えて、五月に入ってしまいましたが、なんとか更新できました。
春だったので、桜のものをと考えていましたが、すっかり季節は移ろいでいました…。
酔っぱらい法師と、逆らえない珊瑚ちゃんです。
甘い雰囲気になるよう努めましたが、その結果はいかに。
12.05.04 漆間周