「おや、珍しい。起きていたのですか?」
りぃーん、りぃーん、と鈴虫だろうか。
廃寺の庭は生い茂った草で虫の住処なのだろう。
鈴虫やら竈馬やら、色々な虫の声が聞こえる。
そして、天中には満月。
一片も欠けることない、見事なまでの。
そのせいであたりは薄明るい。
大したことはない。
なんだか眠れぬので起きて外に出てみたら、かの法師が手酌をしていたのである。
一体どこで調達してきたのか知らぬが、ざっと五つ。
すでに二つの徳利が飲み干されている。
白磁の碗にまたとくとくと透明なそれを注いで、ちびり、と法師は一口やる。
「何、月がきれいなので。一興かなと思いまして」
お前が来てくれたなら花が増えたようなものだ、これは嬉しい。
くく、と悪戯っぽく笑って珊瑚に隣に座るよう促す。
この美しい宵に恋人と二人きり。
まんざらでもない。
案外素直に珊瑚は弥勒の隣に座って、杯をくれと促した。
「なんだ、お前も飲むのか? 珍しい」
「あたしだって飲む時もあるよ。法師さまみたいに強くはないけどね」
「ならば、ここに」
ぐいっ、と。
小袖を掴んで強引に彼の人は珊瑚を己の腕の中にすっぽりと入れてしまう。
「ちょ、ちょっと何すんのさ!」
とたんに朱がさす彼女に弥勒は意地悪く攻め立てる。
「愛しいおなごを抱きしめて何が悪い? それとも嫌か?」
「嫌……じゃないけどさ」
「ほう、嫌でないけれど?」
にこにこと、人の悪い笑み。
「……もうっ、とにかく嫌じゃないってこと!」
ふんっと腕組みして、杯を手にとる。
自分で入れようと手を伸ばしたところ、その手は彼に遮られた。
「私が入れて差し上げますよ」
「あ、うん……」
見ている内に、透明な液で満たされる杯。
揺らすとふわり、と波紋が広がり、うつしだされた満月が揺れる。
甘く心くすぐる酒の香り。
「……本当は嬉しいくせに」
どうしようもなくからかってくる法師の言いように、むっとして、珊瑚は杯を一気に飲み干した。
ぷはっ、と息をついて一言。
「嬉しくない」
「おやお前、そんな飲み方をするものではありませんよ」
「?」
首を上げればそこに法師の端正な顔がある。
のぞきこむにこやかで慈愛に満ちた笑みに、自然とまた頬が紅くなる。
「じゃあどう飲めばいいの?」
「……口移し?」
聞いた自分が馬鹿だった、と思って今度こそは自ら酒をついで、ちびりと一口やる。
ところが。
存外強い酒だったらしい。
一口だけ飲むと余計にわかる。
酒精の芳香がいっぱいに広がり、喉に甘いような苦いような感覚。
――ま、いっか。
今晩はこの法師に付き合うとしよう。
そう思ってまたこくっこくっ、とやる。
「珊瑚」
「なに?」
こちらをじいーとのぞきこむ彼の顔。
「お前が酔っ払って寝てしまいでもしたら、よからぬことを、しますからね」
「……知ってるよ」
ばか。
またくすくす笑う声が頭上で響いて、全くこのひとは本当に法師なんだろうか、なんて思ってしまう。
「本気ですから」
ぞくり、と背筋に電流が走るような、低い声音でそう囁かれた。
まして耳朶のこんなすぐ側で、吐息がかかるくらいで。
酒なんぞよりこちらの方に酔ってしまいそうだった。
ゆるり、と首を振って珊瑚は笑う。
「じゃあ先に法師さまが酔っ払っちゃったら、あたしも”よからぬこと”、するからね」
「ほーぅ、それはそれは。期待しておりますよ」
「ばか、そういう意味のよからぬじゃない」
なんて他愛のない会話。
戦闘続きのこのところ、二人きりで安らかな時間が過ごせたことはあまり、ない。
あの彼からの告白を聞いた後も。
何時もどおり、へらへらした態度の彼と、素直になれない自分に変わりはないが。
***
ちびりちびりとやって、何刻経つだろうか。
なんだか今宵は、久し振りに安らかで、安心で、不思議な夜だ。
先ほどから本当に他愛もない話ばかりしている。
結婚の約束したんだから浮気はやめて、と言えばふーむ、と唸る弥勒に拗ねてみたり。
子供はどっちがいい、なんて話をしたり。
犬夜叉とかごめちゃんはどうなのかなあ、なんて人の恋路を探ってみたり。
互いに、全く深刻になることなくただ話すことに夢中になっていた。
この法師は酒を飲むときは決まって何か悩みがあるものだから、付き合うとどうしても彼の悲しみが溢れてきてしまう部分も多い。
それなのに今日は、憂いなく陰りなく。
ただべらべらと恋人同士の甘い語らい。
無意味な言葉ですら嬉しい。
幸せの感覚に満ちて行く。
そう、あなたといるだけで、あなたと話しているだけでこんなにも満たされるのだから。
ははは、と笑う弥勒が心底の笑みを見せている。
それは、お酒のせいじゃなくて――あたしが一緒だから?
そう思うと珊瑚の唇は自然にゆったりとした笑みの形に変わる。
体勢は最初に弥勒に抱きすくめられたそのままだけれど、彼の表情なんて見なくても分かる。
「珊瑚……」
気付けば彼が己の髪を愛しむように梳いている。
いつの間にか結はとられてしまっていて。
多分、彼は目を瞑って、唇で髪を愛でている。見なくても、分かる。
「法師さま……」
そっと、触れる柔らかなその感触が愛しくて、ただ愛しくて、珊瑚は目を瞑る。
「子供は法師さまに似てるかなあ。それともあたしに似てるかなあ」
「さあ…どうでしょうなあ」
耳元で囁かれる男の低い声音。
ああ、酔う。
「でもさ、女の子で性格が法師さまに似ちゃったら困るよね」
「それはそれは……困りますなあ」
気付けば徳利は残りの一つ。
いつの間にこれだけ空けていたやら。
なんとなく、徳利を手にとって。
中に酒がいっぱいなのを確認して。
自分でも何を思ったやら、徳利ごと酒を飲み干す。
「って、おい、珊瑚」
「んー……もうちょっとないのぉ?」
はぁぁぁ、と嘆息して法師はくいっと娘の顔を己に向ける。
そこには熟れた果実のように赤い顔があって。
「お前、酔ってるな?」
「酔ってないもん」
「酔っ払いは決まって酔ってないと言うものだ。寝るか?」
「んー……まだこうしてたい」
徳利を無造作に置いて、くるりと体の向きを変える。
愛しい人の肩に腕を回して頬をすりよせる。
「法師さまぁ」
「これこれ。よからぬこと、しますよ?」
「んー、してもいいかも」
はぁぁぁ。また弥勒の嘆息。
何分、酒に酔ったついでに、なんぞ、珊瑚に関しては彼の趣味ではないのだ。
それなのに胸はあたるは耳元で甘い声で囁くわ、朱に染まった顔で、潤んだ瞳で見つめるわ。
誘っている以外の何物でもない。
が、我慢。
「ねーぇ、髪ほどいていーい?」
「どうぞ」
もうこれは好きにさせるしかないな、と諦め彼女に身を任せる。
ぱさり。
ほどかれた髪が広がる。
珊瑚は不思議そうにその姿を見つめていた。首を傾げて。
「なんかかわいー」
破顔一笑。
「男に可愛いとは何ですか」
まあお前のそんな表情が見られるのだから、悪くは思いませんがね。
弥勒がひとりごちる。
「ほーうーしーさーまー」
「今度は何です?」
「あたし赤ちゃん欲しいなー」
「……お前、言ってることの意味わかってるか?」
「えー、コウノトリが運んでくるんじゃないのー?」
――だめだこりゃ。
「とりあえずぅ」
すいっと寄せられる珊瑚の顔。
自然に、滑らかに。
吸い寄せられるように二人の唇は重なった。
「だいすきぃ……」
「知ってますよ」
「知ってたのー?」
「勿論」
「じゃあほうしさまは?」
「愛してます。他のどんなおなごよりも」
「へへー、知ってるー」
またもや破顔一笑。
無垢な笑み。
少女……童のような。
傷一つない負ったことのないような。
酒のせいとは言え、珊瑚がこんな表情をするものとは思っていなかった。
こんなに無垢に微笑める彼女が、過酷な戦場に身を置くなんて。
守らなければならない、と思った。
今までよりいっそう、強く。
「珊瑚」
「なぁに?」
甘えた猫のようにすりすりと法師の体に縋る珊瑚。
「お前は……絶対に私が守りますから」
「んー、分かったあ」
この命に変えても。
何があっても。
必ず。
月夜の酒に、誓いをとおす。
<了>
映画タイタニックの名台詞。「I love you.」「 I know.」
私はこれが大好きです。
愛してる、の言葉に愛してる、で返すより、ずっとずっと心に響く。
「好きやぞ」「知ってるよ」……私自身、そんなやりとりをした日もありました。(遠い目)
ここまで読んで下さってありがとうございました。
2009.05.15 漆間 周